日本自然保護協会(NACS-J)が提供する、暮らしをワンランクアップさせる生物多様性の世界

しぜんもん


UPDATE 2014/09/02

連載

No Nature No Future

被災地の中高生と理想の海辺を提案する。

東日本大震災の被災地では、防潮堤の建設が進んでいます。本当に地元の住民が必要としているか議論されぬまま建設が進められているケースが少なくありません。

そんな中、宮城県の中高生が、震災と向き合い、自分たちの暮らし町の将来像を考え、県や市に提案する活動を続けています。中高生たちの活動のきっかけをつくり、支援している高校教師・小川先生に、子どもたちの活動について伝えていただきます。

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被災地の教師として感じた義務

2011年3月11日の東日本大震災当時は宮城県塩釜高校勤務だった。その日は宮城県立高校の入試採点日であったために、生徒は登校していなかったので混乱は少なかった。塩釜高校は高台にあるため津波の心配はなかったが、停電でテレビは使えず、被災地で何が起こっているのか全く分からなかった。3日後に通電した学校でテレビの津波映像を見てゾッとした。余震が収まらず、大津波警報が解除されるのを待ったために、港近くにあった借家に戻れたのは3日目。借家は全壊していた。その後一カ月は学校内の合宿所で同じく被災したほかの教員と一緒に寝起きした。4月下旬、学校が再開されるために、塩釜市の避難所へ移った。

5月から再開された高校現場では「生徒の心のケア」なることが標榜され、授業で震災に触れることは禁止されて、3年後の今日に至っている。震災直後にこの事が宮城県教育委員会から通知された時、私は違和感を覚えた。これは生徒の心のケアを口実に、被災と向き合うことを忌避しているとしか思えなかった。果たして、その後も被災地の学校としての取り組みは何も行われず、県の教育委員会からの指示も無かった。
私としては被災地の高校生が被災地域外の高校生と全く同じ生活でいいとは思えなかった。進学や部活動を考えると、被災に向き合っている時間は受験勉強の負担になる。しかしそれでいいのだろうか。私は教師として、生徒に何らかの形で震災と向かい合わせる義務があると感じたが、そのときには具体的な手立てはなかった。

津波後の標識設置活動で地域と向き合う

震災から一年が近づく2012年1月の小雪が舞う日に、自分の研究室で「津波の高さを調査して、その高さを電柱に表示する活動を生徒に行わせる」ことを思いついた。この活動は被災の継承であるとともに、地域の防災運動としても展開できる。来年の3年生の選択授業「塩釜学」で実施したいと考えていた。ところが4月から多賀城高校に転勤することになり、その計画は頓挫した。
4月から多賀城高校での勤務が始まったが、通勤距離が2㎞から4㎞になっただけで、生活は今までと同じだった。しかし定年退職まで2年を残し、新しい学校で何ができるかは見当がつかなかった。新しい学校になじんだ5月ごろ、校長に「津波標識を電柱につける活動」を提案したところ、校長は大いに共感してくれた。これは意外だったが、校長とは同じ歳で、最後の学校で何かをしたいという気持ちは同じだったようだ。

1年生の必修物理の授業で希望者を募り、夏休みと冬休みに調査を続けた。多賀城市は仙台湾の後背地に位置するため、三陸の各町のような破滅的な津波ではなかったので、被災した家屋には津波の痕がまだ残っている。これを水準器で計測してゆく地味な作業だったが、参加した生徒たちはよく頑張ってくれた。そして翌2013年の夏からやっと標識設置する段階となった。この活動が地元でも評判となりテレビ局5社が取材に訪れ、多賀城市の減災会議にも出席するようになった。

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生徒のヘルメットの高さに津波痕がある。

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設置した津波標識

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津波痕の高さを電柱に水準器で移す。

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水準器で示した高さに、津波痕の標識を設置する。中央の女子生徒はこの場所で津波に遭遇し、7時間車の屋根に立ち尽くし、自衛隊に救助された。この辺は仙台港から1kmほどであり3mほどの津波高だが、仙台港では8mほどの津波が到来している。(津波高は標高)

 

住民集会の傍聴から開始

こうして夏も過ぎた2012年の秋、「被災後1000日」と言われ始めた、防潮堤の問題がマスコミやネット上で見聞されるようになってきた。多賀城市は海に隣接していないため防潮堤問題はなかったが、多賀城高校への通学者が暮らす範囲にはいくつかの浜沿い地区があり、そこは防潮堤問題を抱えていた。そのひとつが七ヶ浜町表浜であり、もうひとつは仙台市蒲生であった。

津波標識活動の行った生徒たちの中で継承活動に意識が高い生徒たちに住民集会などの傍聴を呼びかけたところ、5~6名が希望してくれた。住民集会、学習会、県の防潮堤建設説明会などに参加していくと、だんだんと防潮堤の問題が見えてくる。
(1)高さの問題、(2)場所の問題、(3)コンクリートなどの材質の問題、(4)移転地区の指定範囲の問題などである。

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蒲生干潟の清掃活動に参加

 

仙台市の七北田川の河口に蒲生という浜がある。今回の津波で町のすべてが立退き地区となった集落である。かつて仙台藩には貞山運河と呼ばれる日本最長の運河があり、江戸期には塩釜湾から仙台城下まで水運が整備されていた。蒲生はその中継地としての役目を担っていた。その運河も40年前に仙台新港掘削時に埋め立てられ、江戸時代からの集落跡も今回の津波で壊滅してしまった。

その跡地を仙台市は工業用地とする区画整理を進めている。また海に面した蒲生干潟は、国の鳥獣保護区特別保護地域にもなっているが、大きな防潮堤の建設が予定されている。環境団体などが見直しを要請しているが、宮城県と仙台市は計画を変更していない。

将来像は次世代に選択してほしい

こういった状況の中で高校生が集会に参加し始めたのである。始めは傍聴だけの予定であったが、だんだん事情が理解できてくると、彼らなりに自分たちの提案を考え始めるようになった。

その流れの中で蒲生を学区とする高砂中学校の在校生や卒業生が集まり、アイディアを出し合い「緑の防潮堤」としての提案を考えた。これはコンクリート防潮堤の代わりに緑の防潮堤つくり、位置もより内陸側に建設し市民の里やまにしたいという提案であった。

これを今年2月の住民集会で披露してところ好評だった。このとき地元の方から貞山運河への思い出も色々聞かせていただいた。このことが契機となり、生徒たちは郷土誌などで歴史の勉強もしてゆくこととなった。そして1カ月後に、より広範囲に歴史公園として整備する案を提案した。

 

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生徒たちがつくったイラストマップ。(イラストをクリックすると大きくなります)

 

徒たちの提案詳細(PDF/1.08MB) ※クリックするとPDFが開きます。

 

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仮設住宅を訪問して提案を説明

 

これが評判となり、5月9日には仙台市と宮城県へ提案を届け、5月24日には安陪首相夫人へ直接発表する機会にも招待された。そして6月4日の参議院本会議「海岸法改正」の審議では中高生の提案が議員資料として紹介された。
しかし、このような大きく取り上げられた中高生の提案であるが、まだ仙台市の区画整理事業の見直しまでは至っていない。

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仙台市への提案

 

蒲生地区で安部首相夫人(左から3番目)をご案内する。

蒲生地区で安部首相夫人(左から3番目)をご案内する。

 

6月4日に蒲生地区の土地整理説明会に生徒と参加した。仙台市は被災した土地を区画整理するために換地を行い、工業用地として買い上げることとなり、住民としてはできるだけ高額になることを期待している。この買い上げ金が住宅資金になる家庭もあるだろう。地元住民は自分たちの土地が工業用地になろうが、公園用地になるか考える余裕はないと雰囲気であった。

中高生の活動は、仙台市が工業用地として買い上げる土地を公園用地として転用し、維持管理が容易な緑も防潮堤にすることを提案している。

今、被災地各地でつくられている防潮堤は50~60年後に補修の時期を迎え、これからの世代に負担を背負わせることになる。しかしその補修費用は自治体負担となる。人口が減少している東北各地で、コンクリートの防潮堤を維持できるのだろうか?

この問題はこれからの世代に選択させるべき問題だと感じている。今後も地域づくりの場に、若い世代も責任もって参加できるような状況をつくっていきたい。

 

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小川進
宮城県多賀城高校教諭。数学・物理・地学を担当。写真部顧問歴が長い。長靴とヘルメット姿でよくで歩いている。

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